僕はウクライナに侵入を試みたも、警察に捕まえられ、写真や動画を全て消去された。
その経験から、ウクライナに入って取材をするには政府の許可証が必要だということに気づいた。
しかしながら許可証を貰う手段が思いつかず、丸腰で取材に行っても怪しまれるだけだと思ったので、仕方なく僕はポーランドからエストニアに向かった。
そのワルシャワからエストニアの首都に行くバスの中で、あるウクライナ人の女性と隣り合わせになった。
バスの中では何も話さなかったのだが、エストニアに到着後、偶然街で再び会いその後少し話をする機会ができた。
そしてその女性の友達がいまエストニアの首都にいるらしく、出身地を聞くとブチャだというので取材を受けてくれないかとお願いしてみたところ、快く了承してくれた。
インタビューの時間は電車の都合上約10分ほどしか取れなかったが、質問したい内容を紙に書き記し、インタビューに移った。
ちなみに事前に質問票などは渡していないので、完全にぶっつけ本番であったが、彼女は理路整然と淡々と話してくれた。
今回の記事はそのインタビューの内容を文字に起こしたものである。
最初は緊張してる様子だったが、質問をすると考えていたことがスラスラと出てきたように見えた。
-あなたの出身地はどちらですか?
-私はウクライナのブチャという街から来ました。私たちは非常に悪い人々に襲われ、多くの人々が負傷し、家が被害を受け、家族が被害を受け、そして私の家も被害を受けました。多くの物がロシアの兵士によって盗まれ、ロシア兵は私たちの家に住み、彼らは窓とドアを壊しました。
彼らは取れる物は全て取りました。そして、私たちを嘲笑いました。彼らは女性と子供をレイプし、手を縛り、頭を撃ちました。ウクライナで起こったことはとても恐ろしく、怖く、私はとても大きな心の痛みを感じます。
-あなたのストーリーについて教えてください
-私のストーリーは少し変わっています。私は爆弾やミサイルから逃げ出し、逃げ続けました。ある朝、午前6時に起きると、私は「戦争になった」と聞きました。そして一旦起きたものの、戦争が起きたということは信じられなかったので、再び私はベッドに行きました。そして私がさらに1時間眠ったとき、大きな爆発音で目が覚めました。それは彼らが爆弾をブチャに落とし始めたということを意味しました。私の家は爆弾が落ちた場所から50メートルのところにありました。
ロケットが私の家の上を飛んでいて、それが私の家に落ちそうな気がして、とても怖かったです。。私たち家族は皆お互いを目を見合いましたが、これから何が起きるのか理解できませんでした。生きるか死ぬかのどちらかだと思いました。
別の日、私たちは家にいて、それが終わるのを待って、そしてそれが終わったと思いました。ひどい冗談だと思いましたが、それはまだ続きました。夕方、爆弾やロケットが家から20メートルのところに落ちて怖かったので、家にいられなくなりました。私たちは家を飛び出すように逃げ、服を着る時間すらありませんでした。私はジャケットだけ急いで取り、スリッパのまま3分ほどかけてシェルターに走りました。たったの3分でしたが、それは私のこれまでの人生を思い返すのには十分な時間でした。
私たちはシェルターの中で、たくさんの人や、犬や小さな子供たちと一緒に夜を過ごしました。爆弾がシェルターに落ちるかとずっと考えていたので、人生で最悪の夜でした。彼ら(※おそらくブチャにある自動ミサイル撃退装置のことか、地上で戦う兵隊)は戦っていたので、とても怖かったです。そして朝が来て、少し静かになったので、私達はブチャから逃げなければと覚悟を決めました。もし、逃げなければ非常にひどい何かが起こる気がしたのです。そしてそのひどい何かとは今、ブチャやウクライナで多くの人々に起こっていることです。
私たちは安全に逃げる方法を見つけ、無事に逃げられましたが、安全な場所に到着したその30分後には、彼らはジトーミル高速道路を砲撃し始め、家族やすべて人々に発砲し始めました。私自身このルートを通って来ましたが、この時点では救助隊でさえ人々を助けることができず、多くの人が血を流したと聞き、それを聞いたときは信じられないほど怖かったです。
-今後の予定を教えてください
-ひどく落ち込んでいるので、次に何をすべきかわからず、今はどうしたらいいのかわかりません。どうやって計画を立てるのか、また何を計画すればいいのかわかりません。なぜなら家族はウクライナにまだいるからです…
その後彼女たちは電車に乗って、また別の街に向かった。
彼女たちの将来がどうなるのか、国の未来はどうなるのか、色々課題は多そうだが、どうにか元気に頑張って生きてほしいと思う。
動画版のインタビューはこちら↓